上




    翼を持って空を自由に飛ぶ なんて

    神らしいじゃないか。






 自分でも異常だと思うくらい目が冴えている。父らが憔悴しきって適当な片づけに取りかかるのを眺めながら、月は傲然と背筋を伸ばしていた。火口の逮捕劇からその死、死神の出現と、皆神経を磨り減らし尽くしたのは瞭然としている。一応のゴールと思っていたものが辿り着いてみれば新たな混迷への出発点だったのだから、当然のことだろう。火口逮捕で事件が終わると考えてはいなかったであろう竜崎でさえ、全神経を尖らせているのが、張りつめた空気を介して伝わってきた。
 その中にあってただひとり疲労を知らない。突き抜けるような爽快感が全器官を活性化させている。ビルへ帰還し、レムの取り調べが始まってから数時間。日付も変わり、ここ数日間火口逮捕へ向けて酷使されてきた身体が限界を迎えてもおかしくないものを、眠気が襲ってくるどころか脳の覚醒は絶頂に達していると言っても良かった。
 すべての記憶を取り戻し、王手まであと一歩。何もかもが計算通りであることへの満足感と勝利への高揚感がない交ぜになり、全身のリミッターが外れたように心地よかった。視界はいつもより格段に鮮明だし、脳内物質の分泌が活発になっていることすらはっきりとわかる。
 冴えた視界の隅で竜崎が立ち上がった。
「では皆さん、ほとんど仮眠になると思いますが休んでください。明朝から本格的にノートの検証と火口の周辺捜査を始めます」
 無言の首肯が一様に返される。死神はどうするか問われると、ここでいいと答えた。同じ建物の中程度なら所有者と距離を取れることは、カメラ探しのときに確認済みだ。
 鎖の先端が、部屋へ戻る支度をする父らの合間をすり抜けて扉へ向かうのを追い、月は足を踏み出した。そこで気づく。自重が恐ろしく軽い。精神の作用はこんなにも物理的な影響を及ぼすものか。
 しばらく黙ってついていったものの、エレベーターに乗り込んだところで月は首を傾げた。
「どこへ行くんだ?」
 ともすれば浮き足立ちそうになる声を努めて平静に装い、問いかける。部屋へ帰るのかと思っていたのだが、押し込まれたのは最上階のさらに上、「R」のボタンだった。さっき使用したばかりのヘリポート。
 軽い気圧変化とともにエレベーターが動き始める。ボタンの前に立つ竜崎は、面を伏せたまま軽く右手を挙げて見せた。
「鍵はワタリが持っていますので」
 ふたりの間を滑り落ちる鎖の音ですら、今は涼やかに聞こえる。限りなく軽く感じられるその鉄鎖を指先に絡めて、無表情の影でほくそ笑んだ。この鎖が完璧な弁護人だ。記憶が飛んでいたときの清廉潔白な言動の数々を、2メートル足らずの至近距離で見せつけてきた。偽のルールと、自らが科した手錠の鎖に、がんじがらめにされて動けなくなればいい。拘束されてたのは僕じゃなくておまえのほうだ。
 ひどく全身が疼く。おまえは負けたんだと大声で叫びだしたくてたまらない。レイ=ペンバーを見下ろしてやったときの、胸のすくような気分が忘れられなかった。今回の爽快感はあのときの比ではないだろう。そう遠くない日に訪れるであろう勝利の瞬間を待ち焦がれて、気がおかしくなりそうだ。



 翼が。
 翼がほしいんだ。神になって空を飛ぶために。



「……嬉しそうですね」
 声をかけられ、はっと我に返る。思いの外時間は経っていなかったようで、階数表示はまだ15階を示していた。取り繕おうかと考えて、やめる。嬉しそうにしていたところで何の不自然もないのだ。
「そりゃあね。竜崎は嬉しくないのか」
 聞き返せば、悔しいです、とだけ憮然と返事があった。どれだけ悔しがったところでもう手遅れだ。嘲笑って、月は肩をすくめた。
「ああでも、これが外れたら変な気がするかもしれないな。何ヶ月もこの状態で、もう慣れてしまったから。そういう意味じゃむしろ少し寂しいかもしれない――」
 さらに続けようとして。傍らから投げかけられる不審の視線を感じ、月は口をつぐんだ。限界まで目を見開いて対象物を疑う、いつもの表情。少し舌が滑りすぎたか。さっきだって無表情に努めていたはずで、嬉しそうだなんてふつうわからない。鋭すぎる洞察力にちくりと神経がささくれだった。
 音も立てずエレベーターが停止し、扉が開く。もうひとつ自動ドアを抜けたすぐ外がヘリポートになっていて、ついさっきまで乗っていたヘリが暗闇の中鎮座していた。
 心地よい都会の夜気を肺いっぱいに吸い込む。地上23階を駆け抜ける夜風を全身に感じる。周囲のビルのネオンサインは宝石のように煌めき、遙か遠く地上の道路には光の河ができていた。格段に性能の上がった網膜に映し出される世界はこんなにも美しい。あまりにも身体が軽く感じられるせいで、とんでいるみたいだ、と月は思った。
 ヘリに近づくと早々にスーツに着替えたワタリがいた。機体の整備をしていたらしい。ヘリのドアを開けて外から上半身を突っ込んでいる。こちらに気づいたワタリはいつもの丁寧な物腰で振り返った。
「竜崎。なにか?」
「ワタリ。手錠の鍵を」
 悔しさなど微塵も感じさせない語調で竜崎が告げる。ワタリは何も言わなかったものの、数瞬間だけ確かに沈黙を挟んだ。が、すぐに、わかりましたと応じて内ポケットから小さな鍵を取り出す。竜崎はそれを受け取ると、もう休むといい、と言った。
 ワタリが一礼して去っていくのを見送って、月はその鍵をするりと奪い取った。
「こんな小さなもので終わるなんてな。滅多にできない経験ばかりだったよ。ヘリにも初めて乗ったし」
 意図的に軽い物言い。しかしそれは月の状態を的確に反映している。ワタリが閉じたドアを開け、月は機内を覗き込んだ。
「本当に生身で飛んでるみたいだった。飛行機とは全然違うんだな」
 言いながら、運転席を乗り越えて助手席に座り込む。怪訝そうな顔で伺ってくる竜崎を無視して、月は目を閉じた。さっきは景色を堪能している余裕などなかったが、たぐいまれなる記憶力は上空からの夜景を鮮明に蘇らせる。都市の灯りに白んだ夜空と、眼下に見下ろす光の海。ところどころ黒々とした闇が見事なコントラストを演出する。
 何よりも忘れられないのは、あのえも言われぬ浮遊感だった。身体に直接響く振動が、安定と不安定の間を行き来するあの感覚。思い出すと長い吐息が漏れた。



 まだそうやって飛べはしない。まだ足りない。
 だがもうすぐ。いつかはこの空を自在に飛ぶ。
 足りないものは、




「外さないんですか」
 肺からすべての呼気を出し切ってしまうと、月はゆっくりと目を開けた。シートに背を預け、
「なんだか感慨深くて」
 フロントガラス越しのビル群を眺めながら呟く。竜崎は疲れたように嘆息し、運転席に乗り込んできた。
「まだ事件解決はしていないんですが……」
「そうだな。でもこれは外れるだろ。ヘリなんかよりあり得ない体験だったよ」
 感慨深いのは嘘じゃない。それは事件解決どころか、この男が最も望んでいない感慨ではあろうが。手中の小さな鍵は巨大すぎるくさびだ。たとえこの手錠が外れなくとも勝利できる確信はあるが、これを外すということは一種の儀式だった。
 神聖な、この上なく神聖な、儀式。
 深夜でもお構いなしに輝く街を、見るともなしに見ながら、竜崎がいつもの格好にしゃがみ直す。
「まあ、うっとうしかったでしょうね」
「…………」
 途端、何気なく振られた言葉に相づちを失った。
 ばかな。自身を叱咤して内心呻く。こんななんでもない会話に詰まるな。適当に受け流すことができなかったのは、それがまったく認識していなかった事実に目を向けさせたからだった。
 それでもなんとか体勢を立て直すのに数秒もかからない。
「……そうでもなかった」
 今度は完全な意識の統制下だ。顔だけで運転席を向いて、しっかりと竜崎を見据えた。静かに口を開く。
「うっとうしかったか?」
「私から提案した監視なので、そういうことが言える立場ではないです」
 足の指先をいじりながらの、気のない返事。月は根気よく続けた。
「監視がどうとか立場がどうとかは考慮に入れずに、単純にうっとうしかったかどうかの話だ」
 続く沈黙は存外に長かった。自分もこんなものだったろうか。夜の冷気を意識する程度には長く押し黙ってから、竜崎は顔を上げた。正確に視線が合わされる。
「そうでもなかったです」
 淡々とした語調に、かえって首筋がざわついた。はったりや欺瞞でない言葉は確実に互いの真芯を刺し貫く。彼らはそれを緩和するすべは知っていても、防ぐ手だては持っていなかった。互いに貫きあうだけ。
 機内の空気が変質する。そのことは十分に悟りながら、月はひやりとした窓ガラスに五指の先をそっと触れさせた。昂揚の収まらない脈拍を意識させるには十分の冷たさ。
「空を飛びたいと思うことがある。ヘリも良かったけど、本当に生身で。翼をください、ってな」
「それこそ裕福な子どもですね」
 独語のように紡ぎ出された台詞は、愛想のない口調に迎え撃たれた。
「富とか名誉ならばいらない、ですか」
「おまえでも歌ったりするのか」
 笑い含みに言ってやればじろりと睨まれる。それがどういう意味の返答なのかは測りかねて、月は視線を正面に戻した。
「富とか名誉は、こう言うのもなんだがあまり苦労せずに得られそうだ。翼は人類が古代から抱いてきた夢だろ?」
 冷気が指先から感覚を奪う。きんとした冷たさが頭をさらにクリアにさせた。
 実現不可能なことじゃないのだ。すでに条件はすべてそろっている。今まではいわば――片翼の状態だった。もう片方の翼がないせいで飛べない。羽ばたく力が足りないから神になれない。今は違った。両翼はすでに手中にあるも同然だ。飛び立つことを思い浮かべると、活性化した全身から、さらに過敏になった意識が剥離していくような錯覚を覚える。
 右手はガラスに触れさせたまま、月は左手で傍らにある操縦用スティックに触れた。
「ヘリも良かったけどな。……免許持ってないって?」
「ないですね。完全に勘です」
 素面でおそろしいことを言ってくれる。今更ながら苦笑が漏れた。竜崎はそれを敏感に察知して言い訳がましく続けてくる。
「そんなに複雑な操作ではありません。さっきも言いましたが夜神くんにもできます」
 月は眉を上げてわずかに黙考のポーズを取った。コツリ、と人差し指で窓ガラスを叩いてから、
「じゃあ、教えてくれよ」
 笑いもせずに、まったくの真顔で言い放つ。手錠の鎖が音も立てないほどゆっくりと操縦用スティックから左手を離した。
 漆黒の瞳に浮かぶのは微量の猜疑だ。ビル全体も緊張の中で眠りにつこうという深夜、TPOにそぐわぬ申し出。その意図を探ろうとするあからさまな目線にはあえて応えず、月は、休みたいならいい、と何食わぬ顔で付け足した。
 竜崎は諦めたように視線を外すと、いえ、とかぶりを振った。
「私もきちんと習ったわけではないので動かし方くらいしかわかりませんが」
「かまわない。自分で空を飛びたいだけだ」



 だから僕が両翼で飛べるよう、翼をくれ。








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