ロマンチストたちのアンビバレンス
「みんな出払ってるのか?」
 都内某高級ホテルの最上級の一室に入るなり、月は部屋を見回してそう呟いた。薄いカーテン越しの夕日だけを明かりにして、電気もつけずにぽつんとソファにしゃがみ込んでいる竜崎が顔を上げる。彼以外の気配は室内になかった。ずいぶん暗いな、と背後についてきた死神が独語する。
「朝日さんは北村次長に呼び出されて、相原さんは鑑識に追加の結果を受け取りに、二人とも本庁へ。松井さんも朝から本庁で別の捜査官と、キラ事件関連の報道をチェックしています。三人とも今日は直帰の予定です」
 そうかと相づちを打ちながら、荷物をあいているソファの上に置く。大学から一度家に帰ったので、荷物と言っても大したものではなかった。そのせいでここへ来るのが夕方になってしまったわけだが、大学よりは家からのほうがこのホテルに近かったのだから特に問題はない、はずだった。しかし、
「じゃあ今日は来ても仕方なかったかな。どうもまだ勝手がわからなくて」
 竜崎は席を勧めるというような気の利いたことはしてくれなかったので、月はこちらも気の利かないふりをして適当に腰掛けた。視界の斜め前、赤い逆光を背負っていびつな陰影を浮かび上がらせる気の利かない男は、いえ、と一応は首を振って見せ、
「今のところはビデオの見直しなんかが主な作業ですから、人数は少なくても大丈夫ですよ。むしろ今は人がいないので助かります」
 言いながら当然のように資料を放ってくる。竜崎が今まで読んでいたものらしく、第二のキラからのビデオの内容や、その鑑定結果などについて記されていた。日が沈みつつある、おまけにカーテンまで閉じられている室内では、読みづらいことこの上ない。電気をつけに行こうかとも思ったが、それは立ち上がろうともしない竜崎に使われているようでしゃくなので、月はあえてそうしなかった。
「今朝出た鑑定の結果です。意見を聞かせてください」
 へりくだったとも高圧的ともとれる口調でそう言って、資料の間に埋もれているティーカップを手にする。結果がすべて記載されているのかどうかも怪しいところだ、と月は胸中で吐き捨てた。いつかキラが――月が――第二のキラと接触してしまったときのことを考えるのなら、この頭の悪そうな第二のキラがせっかく残してくれた証拠を隠滅されないために、月に一部のデータを隠すのは妥当な判断だろう。が、今のところはこれがすべての情報だと仮定して考察するしかない。
 第二のキラからのメッセージを目で追って、月はふと口の端を持ち上げた。
「何かありましたか」
 暗い室内だというのに、月のわずかな表情の変化に気づいたらしい竜崎が訊ねてくる。その夕日に赤く照らされた横顔を見返して、月はからかうように眉を上げてみせた。
「いや、死神って聞いたときに、ずいぶんと驚いてたな、と思って」
「……キラからのメッセージとあわせて、2回目だったので。そんなものの存在を認めなければならないのかと」
 小馬鹿にされていると思ったのだろう。一瞬にして険悪に尖った眼光を受け流しつつ、月は膝に肘をつく。死神本人はと言えば、話題の矛先が自分に向いたらしいことには反応したものの、それ以上はどうでも良いのか部屋の中をうろついていた。高級な家具に映る赤光が、どんどん鮮やかになってくる。薄布越しということで眩しくはなかったが、カーテンを開けば強烈な紅が網膜を灼くのだろう。
「信じるのか?」
「必要とあれば」
 スムーズに、最低限の言葉で通じる会話。指先が震えたような気がして、月は手を強く握り込んだ。
「だいたい顔と名前で人を殺せる力という時点でまず信じがたいんです。これはそういう事件ですから、受け入れがたいものでも認めざるを得ないものは考慮に入れることにしています」
 そうやってすべての可能性を探ることで、竜崎はここまで来た。こんな、キラ本人を手元に置いて捜査を進めるというところまで。互いに喉元をつかみ合っているような状態。勝算と自信がなければとてもできない。
「死神が実在する可能性は何パーセントだ?」
 横目にリュークを意識し、皮肉っぽく微笑しながら問えば、竜崎はこれまたしれっとした顔で答えた。
「〇.一パーセント未満です」
 その挑発的な態度に、腹が立つよりは笑いがこみ上げてきて、月は肘をついた手の甲に口元を押しつけて軽く笑った。暮れなずむ太陽の光で右半身だけくっきりとした竜崎の細い肩を斜めに見上げる。
「僕がキラだってことには相当の確信があったんだな」
「ですから最初は一パーセントでした。今はほぼゼロパーセントですが」
「嘘だな」
 即答で言い訳を切り捨てて、月は視線を光のない黒瞳にあわせた。微量ににじむ不理解の色は、演技なのかどうか。
「竜崎は僕がキラだと、百パーセントと言ってもいい。確信してるだろ」
「なぜそう思いますか?」
 否定の言葉が返ってこないことにまず満足する。深淵のような双眸に真っ赤な日が射し込むのを下手から見つめながら、月は意識がクリアになっていくのを感じていた。だってそうでしかあり得ないのだ。自分がキラなのだから。竜崎がそれを本能的に察知できないはずがない。論理的思考とはほど遠い考えだったが、このことはもはや絶対の真実のように思えた。
 それでも論理的に説明しなければ気が済まないのは、そのこと自体がまた一種の楽しみだったからだ。
「そうでなければキラの役をさせるなんて意味のないこと、僕にさせないはずだ。どうせ機械の音声と、竜崎にだって作れる文面なんだから。せっかく本物がいるんだから本物が返事をすればいい、そんなふうに思ったんだろ。疑ってるなんてレベルじゃない、おまえは僕がキラだって確信してるんだ」
 いっそのこと、知っている、と言ってもいいほどに。そしてそれと同様に、月は竜崎がそうと確信していることを諒解している。理屈なんか追いつきやしないのだ。この男が向ける執拗な視線、緩く爪をかむタイミング、しゃがみ込む気配や低く抑えた声音、呼吸のためにかすかに上下する胸郭ですら、ありとあらゆる挙動がそれを伝えてくる。
 落ちきる直前の陽が申し訳程度に照らす面をこちらに向け、静謐な眼差しを月に注ぐ竜崎は、静かに、真紅の残滓を揺らめかせることもないほど静かに喉を震わせた。
「当然です」
 目を見開く。さすがにここまできっぱりした返答は予測していなかった。リュークまでもが驚いたように振り返った。静かすぎる声が逆にその深さを思わせる。鮮やかに輝いていた赤い光が闇の色を含み始める中に落とし込まれた一言を、月はゆっくりと咀嚼した。
 不自然な言葉ではない。当然なのだ。ただ、そのことを両者が諒解しあっていても、徹底的にしらばっくれなければならないというのもまた、暗黙の了解だった。
 これまで培ってきた掟に反して、見えない城壁をあっさりと崩してみせた竜崎に、月はとっさに笑うことでそれを再構築しようとした。今までの問答とは違う方向へ倒れ込みそうになったのを察知したのだ。いや、違うか。さらにもう一歩、不可視の境界線を踏み越えることになる。
「当然? それは酷いな。根拠と言ったらFBIの捜査記録と、……あとは僕の性格だとか推理力だとかそんなものだろう」
「…………」
 音もなく。
 竜崎が薄い笑みを刷いたのを見て、月は絶句した。自分で作ったはずの笑顔が、相手のそれに粉砕されて跡形もなく消える。それはひどい奇形の笑みだったが、夕闇に浸食され、書類の山が黒々とした影を落とす中、死神が跳梁する室内においては、これほど相応しいものもなかった。
 竜崎は薄赤い暗闇の中で幻のように笑いを消し去ると、小首を傾げてみせた。
「そんなものは些細なことでしかないんです。もっと大きな根拠がありますから」
 焦らすような物言いに苛立ちを覚えて、月は眉をひそめた。竜崎はきっかり二秒こちらの目をのぞき込んで、わかりませんか、と呟く。
「運命です」
 ウンメイ。
 計ったようなタイミングで闇が濃くなった。少なくとも月にはそう感じられた。元々感情の読めない顔が、闇の帳に隠されて、伺うことをさらに困難にさせる。唖然としているうちに笑い飛ばす機会を失したことに気づいて、月はほぞをかんだ。冗談にしてしまうべきだった。いつものように、こいつが大まじめな顔で吐き出す冗談にしてしまえば。
 それができなかったのは機会を逃したからだけではないことを、月は無視した。
『「運命」って言葉に弱いのは、女だけじゃないってことか?』
 どういう意味だ。我を忘れて怒鳴りつけそうになるのを、忍耐力を総動員して抑えつける。しかし眼前の敵、背後の厄介者に挟まれていては、限界が来るのも時間の問題のように思えた。何よりいちいち後ろから茶々を入れられたのではろくに敵の相手をすることができない。仕方なしに、月はなるべく無表情に言い放った。
「表へ出ろ」
「そんなに怒らないでもらいたいものです」
 予想通り竜崎はいけしゃあしゃあと受け流したが、リュークはその言葉の本意にきちんと気づいたようだった。相変わらず喉の奥ですり潰すような笑い声を上げながら、それでも存外にすんなりと壁を抜けて消える。元々リュークは宣言通り、わざわざ月の神経を逆なでするようなことはしなかった。
 いい加減肘をついた膝が痺れを感じてきた。それに乗じて姿勢を変える。持っていた書類を投げ出し、ソファに大きく寄りかかって、月はため息をついた。
「なんだよ運命って。僕をからかってるのか」
 月の目線の高さが変わったのを追って、竜崎の視線が上がる。細い顎をつとそらして、竜崎はあっけらかんと応えた。
「私は本気です。運命だとは思いませんか」
「だからなにが」
「ここで、こうして対峙していることが」
 なにを考えている。焦燥にも似た不審を覚え、月は竜崎のしゃがんでいるソファに近いほうの手すりに背を預けた。距離が近くなって、少しでもその考えを読むことができないかと考えたのだ。結局は目線の上下が再び反転しただけで、常態としての無表情は何のヒントも与えてくれなかった。
 すぐ横に位置することになった月の顔を見下ろして、竜崎は淡々と告げてくる。
「2004年現在、世界には六十数億の人々がいます。年齢、性別、言語、所属、思考、血液型から主義主張まで、すべて六十数億人分あるということです」
 唐突な話題転換についていけず、月は黙って竜崎を観察していた。近づくとよりいっそうその細さばかりが悪目立ちする体躯は、本人の生気のなさとは無関係に、視覚からまで体温を伝えてくる。無機質なようでいて、それほどまでに艶々しい何かが確実に在った。
「キラは全世界的な規模で殺しを行っていました。加えて、キラの力なら行使者がどこにいようと、何者であろうと殺人が可能。最も初期の段階において、この事件の容疑者は六十数億人いたわけです」
 二度ほど握手をしたときの骨張った感触を思い出し、ついでに浮き出た肩胛骨を意識する。なんとなく手に触感の錯覚を感じて、月はもうほとんど赤い光の拭い去られた室内へ視線を転じた。錯覚が闇にとけ込む。
 竜崎が呼気を溜めるのが知れた。
「私はその中からたったひとりを選んだ」
 背筋が震えた。間近で囁かれる言葉に、頭よりも先に身体が反応する。感情や思考の追随を許さない、それは身体の奥底に直接流し込まれる熱の塊だった。抑えに抑えたテノールが圧縮された昴熱を伝えてきて、先ほどまでの夕日の鮮烈な赤が瞼の裏によみがえる。
「確かに月くんにたどり着いたプロセスはある。新宿の通り魔、関東地区でしか放送されなかった宣戦布告、警察関係者しか知り得なかった情報、レイ=ペンバーの残した手がかり、さらにはその明晰な頭脳と負けず嫌いな性格。でも」
 と、そこで竜崎は細く吐息した。部屋に満ちていく闇がひそやかに揺れる。
「そんなことどうだっていいじゃないですか?」
 一刀両断。斬り捨てられた理屈は濃紺の闇の中にばらばらに散らばって、修復の不可能を悟らせた。目頭を押さえる。理詰めの僕らの関係は、たった今粉々に崩壊した。残ったのは剥き出しの――恐ろしく陳腐な単語だと言わなければならないが、やつの言葉を借りるのなら――運命、だけだ。不可視の一線はたやすく乗り越えられてしまった。
「なにもかも後付なんです。理性を納得させるためだけの言い訳に過ぎない。何度やり直してみても、何が欠けていても、私は絶対に六十数億分の一である夜神月にたどり着きます。そういうふうになってるんです」
 語れば語るだけ声に熱がこもっていく。が、暗くなった部屋がその激発を押さえ込み、押さえ込まれた熱はかえってその密度を増した。
 月は自分の呼吸が乱れていることに気づいた。こもった熱気にやられている。発汗もしているだろう。鼓動が不規則だ。
 自分の状態を客観的に分析して、月は面食らった。
 僕は何を焦っているんだ?
 落ち着かない。とっさに、寄りかかっているのとは反対側の手すりに両足を乗せた。こんな態度の悪いこと、したことがない。しかし軽い動悸は収まらなかった。寝転がったソファに深く身を沈め、月はそれでも完全に普段通りの語調を取り繕った。
「意外にロマンチストだね、竜崎は」
 手すりにもたれさせた頭を傾けて、斜め上にある大きな目を眺めやる。竜崎はこちらもそうとわかるほど見せかけの無表情で、そうですか? と肩をすくめた。
「でもキラもロマンチストだと思いますよ」
 月くんも、という文節と入れ替えても差し障りのない、実に自然に月に向けて発された台詞。心中では渋く思ったものの、ここでかみつくのはばかばかしい。どうしてだ? と当たり障りなく聞き返して、月は仰向けに姿勢を戻した。無理な姿勢に疲れた、それだけのことだったのだが。
 にゅっ、と音でも立てそうな仕草で突き出された竜崎の顔面に視界を遮られて、月はぎょっと目を見開いた。視線から天井を奪うように近づけられた面は、息づかいさえ感じられる距離で静止する。月の頭のほうから覗き込まれているため、接近した彼らの顔は、上下反転で対称になった。
「どうしてでしょう」
 ひそめられた声が振動となって肌が粟立つ。先ほどの問いかけの返事かと思ったが、違うようだった。目を合わせてはいるものの、どこか遠くを見るような視線をした竜崎が呟く。
「どうしてこんなに似ているんでしょうね?」
 言葉と同時に下りてきた唇はあまりに当たり前のように重なったので、その行為に当然付随するべきはずの驚きやそれに準ずる反応は、最小限にとどまった。ただ軽く眉を上げる。今さっきまで感じていた焦燥のせいでかさかさに乾いた唇を、平熱を遙かに上回る熱を持った舌が濡らした。
 上下反対で向かい合っているせいで、竜崎の喉元が視界を覆っている。人体が発する、個体特有の匂いをかすかに吸い込んで、月は目を閉じた。ひどく薄い体臭。ここまで接近しても空気にとけ込むぎりぎり手前の香りだった。その曖昧さが深入りを促す。繰り返し舐められる唇はそのままに、首筋に鼻面を押しつけると、駆け足のような脈まで伝わってきた。頸動脈を意識せざるを得ない。その中を通る鮮血も。
 数分前までの真っ赤な夕暮れを連想する。記憶まで灼くその赤光に、思考は完全に飲まれていた。
 そうやってフラッシュバックに気を取られている間に、軽い水音を立てて顔が離れていく。失礼、と小さく告げた声は、相変わらずさざ波ひとつ立てない無表情だった。素足が床に降り立つ気配がする。
「明かりをつけましょうか」
 今になって暗闇に気づいたかのような口振り。数秒の行為をカットしようとする竜崎の意図を月は察した。ソファに寝そべったままの月の脇を通って、入り口近くのスイッチへ向かおうとする。
「竜崎」
 竜崎が呼びかけに振り返ろうとした瞬間、その腕を強く引っ張る。バランスを崩してソファの背もたれに手をつく竜崎の腰を引き寄せて、完全に抱え込んだ。月の上に乗り上げ、密着した身体の薄さに慄然とする。浮き出そうな骨をたどって指先を走らせると、にべもなく手を押しのけられた。
 どこからどこまでを切り取りたいんだ、と声には出さずに問う。どこからだってなかったことにさせる気なんかない。
「キラはロマンチストなのか」
 話も続ける、と含みを持たせて訊ねれば、竜崎はその意図を飲み込んで数瞬黙した。しかし応じて紡がれる言葉は、どんなときだろうと好戦的だ。
「はい。月くんもそうですね」
 顔をしかめる。せっかくキラをだしにしてからかってやろうと思ったのが、いきなり台無しだ。狭いソファの上で器用に身体の上下を反転させて、月は作り笑いを降らせた。
「僕が?」



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