透明な死臭の漂うこのビルは、まるで棺だ。
あまりにも巨大で無機質な建物。死に絶えた静寂を内包して、都会の真ん中で孤独に震え続ける。虚無の香る廃墟。冷え切った鉄が熱を奪い、降り積もる塵が光を隠し、主亡き今を嘆き悲しむ。
耳の痛くなるような無音の空間が、凍てつく四方の壁が、不吉に影を落とす頼りない明かりが、すべての感覚を死へと手招きしている。
1年。この建物が空の棺としてかたくなに主の躰を待ち続けた時間だ。
今でもその一挙一動を覚えているんだ。
おまえは写真も画像も、徹底して残しはしなかったが。
そんなまがいものなんかより遙かに鮮烈に。強烈に。
五感に刻み込まれたおまえは、きっと一生消えないんだろう。
押しつけられた烙印のように。この身を蝕む病のように。
隙あらば蘇ってこようとするおまえを、僕はこの先永遠に殺し続ける。
足下から冷気が青ざめた手を伸ばして這い上がってくるのを振り払い、月は大量のモニタに歩み寄った。これらも処分しなければならないが、ビルを売って入る金があるので心配はないだろう。移転後の捜査本部でそのまま使ってもいい。
ビルの売却をここまで引き延ばすことなどなかったのだと思う。データの持ち出し、処分、諸々の雑務は数ヶ月前に完了している。処置に困って放って置かれたビルを、思い出したかのように売り払おうと決めたのが偶然今だった。こんなことにさしたる意味はない。意味を求めるのは間違っている――
記憶を失くしておまえと馴れ合っていたことも忘れていない。
情なんて移らないし、ましてやあのときを思い返して後悔なんて、するわけがない。
ああいう状況に陥ったのも、ノートを手放した僕の言動も、すべてが計算通りなのだから。
ただ、忘れていない。記憶していることを拒みもしない。それだけだ。
首筋にまとわりつくものを感じて、月は顔を上げた。
眼前にあるのは暗く沈黙したモニタ。
黒々とした画面は紛れもなく表面で完結しているはずだ。遠くまで続くほどの余地などあり得ない。中にあるのはただ画像を映し出すための機構。
だというのに、埃の積もった画面は恐怖すら喚起する暗闇を映し出していた。映り込むのは背後の光景。誰もいない、こそりとも音がしない、うち捨てられたビルの一室。しかし、もしかしたら、ともすれば、在りし日の残影が、取り残された息づかいが蘇ってくるかも。
この寒い季節に僕らの戦いは終わった。終わったのだ。僕が勝った。
それ以上のことはいらない。おまえが何者であったのか、とか、何を思っていたのか、とか。
だから僕は、おまえの名前を知らない。その気になれば持っているノートの1ページを開くなんて造作もないのに、僕はそれを見たことがない。
だって僕らの勝負は、そういう形で幕を閉じたのだから。わざわざ墓の下を掘り返して暴き立てるのはばかばかしいことだ。
液晶の闇に浮かぶ白い面に、誘われるように指を伸ばす。
自然と唇が動いたが、声が出ているのかどうかは定かではなかった。
そして語りかけるのには、そんなものは必要ない。
暗澹たる深淵からずるりずるりと顔を上げる。詰めていた息を吐いて、水面から離れた。
幻影は、消えていた。
おまえがいないこの世界で、
おまえがいたこの世界で、僕は神になる。