DNA

 モニタの中の会議が終了するのを見守って、しかし月は表情を険しくした。こんなものはその場しのぎに過ぎない。一ヶ月という期限がついてしまった以上、焦りも出てくるだろうし、
「やっぱり夜神くんは凄いです」
 思考に割り込んだ声に至極当然のように言われて、一瞬誉められているのがわからなかった。怪訝そうな顔をする月には頓着せず、竜崎は心底感心したような口調で続けてくる。
「殺しを延期させるだけではなく、奈南川から情報を得られるかもしれません。しかも私のやり方に似ていますし……私より早く考えついた……」
 言いながら、椅子ごとゆっくりとこちらを振り返る。感情の読めない黒瞳でまっすぐに、だがどこか茫洋とした目つきで見つめられ、月はある予兆に従ってわずかに身を引いた。回避ではない。攻撃のための間だ。
 竜崎は気にも留めず彼の名を呼ばわった。
「夜神くん」
 ついで月の手をそっと取り、
「DNAをください」
 その言葉を聞いて、月は即座に竜崎を殴り倒した。





           DNA





「痛いです酷いです信じられません。問答無用で思い切り殴るなんて正気を疑います」
「僕はおまえの正気を疑うよ……」
 ぬるま湯で6分ほどまで満たした浴槽につかりながら、月は湯気の中に嘆息を吐き出した。
 あの後、松田さんがえええそれどういう意味ですか竜崎事細かに説明された上で撤回を求める権利が僕にはありますかありますよねないわけないですよねと叫んだり、父が数瞬の間を挟んで意識を失いかけたり、模木さんが妙に気を回してほかの二人を連れて退室しようとするところを必死で引き留めて誤解を解いたり、なぜだかいきなり回線のつながったアイバーからL僕では役不足ですかと解きかけた誤解を一瞬にして再構築する恐ろしいメッセージが入ってきたりと、すったもんだあった末ようやっと解放された。ヨツバに対する今後の見通しまでなんとか立てることができたのは、ひとえに自分が尽力したためだと思う。
 心の安息を求めてどうにかこうにか辿り着いた私室で、ひとりになれる場所をと風呂へ逃げ込んだはいいものの、薄く開けた浴室のドアからつながる手錠の先では、延々と文句が垂れ流されていた。
 顔をつきあわしていたらまた「1回は1回」と報復されるに決まっている。憎しみは何も生み出さないよと、都合のいいご託をのたまって籠城を決め込んだ風呂場は、超はつかないまでも高級ホテル並のものだった。さすがに猫足のバスタブなんてものではないが、雰囲気的にはそれに近い。洗い場も浴槽も、真っ白なタイルを基調として、所々の装飾は曇り一つない金色だ。優雅な流線を描く大きなシャワーのヘッドも金なら、レトロな十字形の蛇口も金。広々とした壁面には巨大な鏡が取り付けられている。これだけ豪奢な作りでどうして下品に見えないのか不思議でならない。
 ぬるま湯で6分というお湯張りは、籠城するならこれぐらいのほうが良かろうという目測でいれたものだ。普段は熱いお湯に肩までつかって、というのが効率的だと月は信じている。
「なんなんだよいきなりDNAって。誤解を招く言い方はやめろ」
「誤解ではないような気がしますが」
「……ともかく混乱を招くからよせ。おまえの冗談は趣味が悪い」
 人のこと言えないですよという言葉は無視して、浴槽に沈み込む。横目で、薄く開いた磨りガラスに寄りかかる影を一瞥した。一緒に湯につかった防サビ加工処理済みの鎖の先端、そのもう片方。ひとりがこうも広々とした風呂に入ってしまうと、もうひとりはドアのすぐそばで待つしかない。手錠生活による制限のひとつだった。そのほかにも睡眠、排泄、エトセトラエトセトラ。
 だいたい普段は事件の資料やらに目を通しながら手錠の片割れを待つのだが、今日はいきなり風呂場まで直行してしまったので手持ちのものがないらしい。竜崎の暇そうな声が聞こえてきた。
「それに、冗談ではないんですけどね」
 そう来るのか。月は顔をしかめた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です。夜神くんと私のDNAを掛け合わせたら、凄い人間ができあがりそうだとは思いませんか」
「パンチのキレは抜群、おまけに足技まで使えるか? それは確かに凄いな」
 故意にはぐらかして水面を見つめる。制限が付いているならせいぜいそれを利用させてもらおうという魂胆は見え見えだ。――こちらも同じことを考えているわけで。だったら、少しくらい焦らしてやらないとつまらない。
 月の発言をほとんど無視する形で返答がある。しかも微妙に笑い混じりだ。
「試してみますか」
「生物学的に無理だろ。試験管でか? まあキメラみたいなものができそうではあるが」
 音もなく磨りガラスのドアが開く。
 流れ出す湯気の中に手錠の先端を見つけて、月は左手で髪を掻き上げた。竜崎はドアのところにしゃがみ込み、親指の爪を噛みながら凝っとこちらを見ている。洗い場を這う鎖が、外気に触れて水滴を纏い始めた。
 冗談のような台詞が吐き出される。至って本気のような顔つきが滑稽であるはずだ。
 客観的に見られるのであれば。
「やってみなければわかりませんよ?」
 浴槽に6分のぬるま湯とはいえ、長時間つかっていたのは失敗だったかもしれない。自分でものぼせているとしか思えないが、月は無表情に応じた。
「どうだかな」
 裸の足裏がタイルに降り立つ。余った服の裾が水浸しになるのにも頓着せず、竜崎は浴槽に近寄ってきた。無遠慮に縁に腰掛けて、指先を湯の中に突っ込む。不機嫌に眉がひそめられた。
「熱いです」
「これでか」
 ぎょっとして呻く。邪道としか思えない設定温度にけちをつけるなんて、こいつの皮膚感覚はどうなっているんだ。月が面食らっている間に、竜崎はごついシャワーヘッドを取り上げていた。
 止める暇さえあらばこそ、金色のヘッドから容赦ない勢いの水が吐き出される。
「冷った……!」
 悲鳴を上げても水が止まる気配はない。いい加減頭に来て、月は竜崎からシャワーヘッドをひったくった。正確にはひったくろうとした。伸ばした手からするりと逃げていくのは、手錠をつけていない左手だ。シャワーが遠くなった分だけ水がかかる面積が増える。水を足すなら蛇口でやればいいものを、これでは完全に嫌がらせだ。
「〜〜っ」
 そっちがそう来るならこっちにも考えがある。月は左手から伸びる鎖を思い切り引っ張った。バランスを支えていた竜崎の右手が、ずるりと浴槽の縁を滑る。その顔に一瞬浮かんだ焦りを月は見逃さなかった。いい気味だ。
 派手な音を立てて、竜崎が肩から浴槽に落ちる。脚が半端に縁にかかっているのが痛そうだが、そこを足がかりにして起きあがるという芸当もできないようだった。シャワーヘッドは洗い場に落下して相変わらず冷水をまき散らし続ける。
 月が蛇口をひねって水を止めているうちに、竜崎は体勢を変えていた。起きあがることは諦めたらしく、逆に両足を湯船の中に引き込んでいる。結局風呂場で着衣泳することになった竜崎は、恨みがましくこちらを睨んだ。
 湯に浸かりながら服を着たままの人間と向かい合い、なんとも奇妙な心地になる。おまけに竜崎がしゃがみ込んでいるのは月の脚の間だ。いくら広いといっても、本来成人男性ふたり入れるほどの広さは無論ない。
「……なんて顔してるんだよ」
 蒸気越しの、前髪から水滴を滴らせ、またも親指を噛み始める竜崎に呟く。前髪どころではない。常はばさばさの黒髪がしおれ、ずぶぬれのシャツが張り付いて骨張った輪郭を浮かび上がらせた。
「気持ち悪いです」
 返事が聞こえるか聞こえないかのうちに、腕を掴んで引き寄せる。たぷんとぬるま湯が揺れる中で、月は躊躇なく相手の唇に自分のそれを押しつけた。
「ふ……」
 小さく鼻を鳴らしたきり、湯に沈められた衣服の重さに負けるようにして、竜崎の身体が前に倒れる。湯に浸かっていたのはこちらのほうだというのに、なぜだか平素より格段に熱のこもった唇をすすって、月はつと目を細めた。
「熱でもあるのか」
「ですから、お湯が熱くて――んッ、ふ」
 言いがかりでなく、本当に熱かったらしい。何度も苦しそうに瞬くのを無視して口を塞いでしまうと、無機質な面がかすかに上気した。月が抱き寄せようとするのを振り払い、膝立ちで湯から離れようとする。それが気にくわなくて、月は竜崎の腕を引っ張った。水中で鎖がくぐもった音を立てる。
「服着て入ってるからだろ。脱げばいい」
 言いながら胸元に顔を寄せる。そうするだけで布越しに形を浮かび上がらせる突起に舌を伸ばして、シャツの上から丹念になぞった。ひう、と息をのむ音が蒸気を揺らし、体温をさらに上昇させる。
 月から離れることもできないまま浴槽の縁を掴んで、竜崎は浅く息をついた。
「手錠、が、あるので」
 言われて左下を一瞥する。いつもは右腕から服を脱ぎ、その腕に別の手錠をかけてから、左腕の手錠をはずして服を脱ぐという七面倒くさい作業をしているわけなのだが、それには手錠がふたつ必要になる。脱衣所へ取りに行くのもばかばかしいし、それ以前に今つけている手錠の鍵もそちらに置いてあった。左腕だけ抜いて鎖に引っかけておくということもできるが、そんなことを勧めてやる義理は持ち合わせていない。
 そしてここで問題なのは、そんなことでもなかった。
「下の話だ」
 濡れて張り付いたシャツをじれったく舐めながら、ジッパーの上を指で辿る。布地一枚隔てたところで生々しく自己主張するものに、月は息をついた。緩慢な動作にひくんと腰がはねて、湯が大げさに揺れる。
 風呂に浸かったジーンズは見るからに重そうだ。黒ずんでいると言ってもいいそれに視線をやって、竜崎は爪を噛んだ。
「頭の良さの50パーセントはDNAで決まるんだそうです」
「? なんだよ、いきなり」
 唐突な話の振り方に眉をひそめる。向かい合って直視すると、言葉がいかに取り繕われたものかよくわかった。台詞こそ日常会話に擬しているものの、喋り方は舌っ足らずだし、何より瞼は半分に落ちて、頬に朱がさしている。
 竜崎はそんな自分の状態に気がつかないかのように続けた。
「さっきの、話です」
「さっき? ……ああ、さっき」
 確かに、なんなんだよDNAって、とは発言したような覚えがある。しかしこのタイミングにその話題を持ち出すあたり、ズレているどころの話ではない。竜崎は、知ったことではないとでも言いたげに、湯の中で月の剥き出しの腕に触れた。絶妙な造形美を誇る二の腕を撫でるとき、無意識にだろうか、喉を鳴らすようなか細い嘆息が漏れる。
「後継者について考えていました」
 月は眉間にしわを寄せた。二の腕は触れられるに任せ、上半身を倒して竜崎の首筋に横から口元を押しつける。滑り落ちる汗を、月は丁寧に舐め取った。
「それで僕のDNAが欲しいっていうのか。そんなのは過大評価だし、僕の努力がすべて否定されているようで腹が立つんだが」
「付け加えるなら、私自身のDNAにも自信を持ちすぎ、ですか? ――……ん、ぅ」
 喋りながら首やら耳やらを舐められるのがくすぐったかったのか、月の頭を押し返そうとするのを、舌を伸ばして止める。そうしながら、月はちょっと視線をさまよわせた。
「賢い人間を作りたいとか言うなら残念だな」
 思いがけなかったのだろう返答に、竜崎は怪訝そうに首を傾げた。続きを口にするか、ほんの短時間だけ逡巡する。結論として、何を言っても戯れ言なら、別に言ってもいいだろうと投げやりな気分になったのは、竜崎の頬から顎にかけて汗の粒が滑り落ちていくのを見てしまったからだった。歯止めなんか効くわけがないのだ。
「近親過ぎると、弊害が出る」
 逃れることは諦めて、月の肩に顔を埋めてしまった竜崎は、こちらもお返しとばかりに鎖骨のあたりを舐め始めた。水と違ってぬるりとした感触が、湯に浸かっていなかった冷えた肩を這う。
「近親ですか……」
 月は返事の代わりに細い首筋を噛んだ。小さな嬌声が浴室に反響し、互いの全身を際限なく火照らせていく。
 間違ってなどいない。顔や容姿こそ似ていないが、その実近親としか思えない思考を持っている。表出するものが違うのは、ただ常識が備わっているか否か、そういったつまらない理由からだ。備わっているほうがどちらか、そんなことは言わずもがな。
 しかし、
「それはないです」
 思わぬ反論を受けて、月は竜崎から身体を離した。
「どうしてだ」
 だって、と竜崎は丸く見開いた目で続ける。かといって驚いたふうでもなく普段のままで、相変わらず感情なんて読めやしないが。
「夜神くんは、少なくとも日本人でしょう?」
 驚きで目を丸くするのは月のほうだった。数秒間動きが止まる。
 たっぷり三呼吸分は間を置いて、月は問い返した。
「……おまえ、どこの人なんだ?」
「冗談ですよ」
 どのあたりが、と聞き返すのも間が抜けていてしゃくだった。代わりに密接した状態でジッパーに手をかける。奥の熱はもう、六分のぬるま湯なんかではごまかせやしない。
 瞬間、竜崎の呼吸が引きつるように乱れた。びくりと腰を浮かせて月に抱きついてくるが、着衣を剥ぎ取るのに協力する結果に終わる。湯中で露わにされた双丘をなで下ろされて目元を歪めた竜崎は、それでも言葉を止めなかった。
「夜神くんのDNAの提供者は、夜神さんですよね」
「そうだが」
 先ほど卒倒しかけた父の顔を思い出して顔をしかめる。真に受けていなければ、ついでに、その発言が浴室で実行に移されていることなど、この先ずっと知らなければいいが。
「顔、似てますよね」
 本当に、いきなり何を言い出すのかと、月は返答に詰まった。そんな月並みな世間話がこの男との間に交わされるとは、思ってもみなかったのだ。
「妹と僕は父似だ」
 戸惑いながらもそう応じる。互いに素肌のままの大腿が触れて、その熱さにいっそ呆れた。
「性格、も?」
「なに?」
 すでに息さえうまくできていないというのに、口を閉ざす気配など微塵もない。自分自身を焦らすかのように月の脚の上で小さく身をよじる竜崎の腰を、そっと撫でた。
「ん、ッ、はぁ――」
「っ……性格とは違うかもしれないが、警察庁に勤めたいというのなら、父譲り――」
「そうでは、なくて」
 湯中で姿勢を崩して月の上にへたり込んだ竜崎は、たまりかねたようにその腕をこちらの首に回してきた。唇が触れるほどの至近距離で、耳元に囁く。
「負けず嫌いなのは、夜神さんもそうですか?」
 そんなことか。一気に半眼になって、月はすでに首をもたげた竜崎の前に指を絡めた。裏返った声と同時、回った腕にぎゅうと力がこもる。
 恣意的に冷めた声音で、月は答えた。
「負けず嫌いは母似だ」
 まともな返答があると思っていなかったのか、それとも思わぬ人物が提示されたからなのか、反応に一瞬の間があった。余人なら気づきもしないだろうが、そんな微妙な間がわかってしまう。
「夜神、幸子さん。なるほど、人は見かけによりません」
「顔がそう似てなくても、僕のDNAの提供者だから」
 沈静化されてしまった態度がつまらなくて、先端を少し強く扱く。途端、竜崎は右の掌で自分の口元を押さえた。粘り気を持った体液が湯の中を漂っていく。
「……ッ、ぅ……」
「声殺すな」
「あ、や――ぁっ」
 口元から右手を引き剥がされて悲鳴がこぼれた。風呂場の反響に赤く染まる目元に口づけて、腰を引き寄せる。
 が、
「総、一郎さんと同じで、東大卒。しかし大学で知り合ったわけではなく、」
「なんなんだよ」
 こめかみに引きつるものを感じ、月は呻いた。竜崎はといえば、完全に蕩けきった目を何度かしばたたき、不理解の色まで浮かべている。月はできる限り苦々しく聞こえるように言った。
「母の話はもういいだろ。前から思ってたが、どうしておまえは普段より口数が増えるんだ」
 返ってきたのはまっすぐな黒い視線と、居心地の悪い沈黙だった。視線のほうは、あえて言うなれば、呆気にとられた、とでも言いたげな。
 月が思わず上体をそらして逃げ腰になったとき、竜崎はぱかっと――としか形容しようがない――口を開いた。
「そういえばそうですね。どうしてでしょう?」
「……知らないよ」
 心底嘆息して、月はしかし下腹がぞくりとするのを感じた。だってそれは、そんなこともわからなくなるくらいなのだと、宣言しているようなものではないのか。癖としては異様なものではあるが、おかしな癖にもいい加減もう慣れた。
 腰に回っていた手を下に滑らせると、絞り出すような吐息が漏れる。全身が緩やかに硬直する以外の反応はないかのように見えたが、「それ」に気づいたのであろう瞬間、軽く突き飛ばされた。
「なんだよ」
「何をするつもりですか」
「指。いきなりは」
「そうではなくて」
 わざとしらばっくれれば、睨まれた。汗だか湯だかで濡れた頬を舐めたくても、今やったら蹴り倒されそうだ。
「どうして指二本、っ――ん、あぁっ」
「最初っから濡れてるんだから、入るだろ」
「入っ、らな……あ――」
 言葉とは裏腹に飲み込まれていく指で、わずかになかを押し広げる。立ち上ってくる泡が生々しかった。突き飛ばされて開いた距離が、月の頭を抱え込む両腕でまた詰まる。浴槽の底についた膝ががくがくと震えた。
「あ、お湯、っ、お湯が――」
 こぽ、と泡の生まれる音。
「お湯が?」
「入、てきます……、っぅ……」
 苦しそうな声に、ああそれなら暖房をつけて浴槽の外ですれば良かった、などと反省のかけらもない返事をして、一瞬手を止める。それだけのことに気づいたらしい竜崎が呻いた。
「今度やろうとか考えましたね」
「何のことだ?」
 即答でしらばっくれ、月は後口にさらに指を添えた。
「ぁ、だめ、ですっ」
 引きつった制止は無視。強引に割り込む3本目の指に、潤んだ目元からぼろぼろと熱涙がこぼれ落ちた。
「あ、ぁ……ッふ――」
 抵抗すれば怪我をするのは自分のほうだとわかっているので、面を伏せてただ荒れる呼吸を繰り返す。それでも時折下肢が揺らめくのは抑えられず、そのたびに勃ち上がったものから吐き出された白濁が、湯中に溶け出しては消えた。
 生ぬるい湯は皮膚をふやけさせるばかりで何の役にも立たない。冷水であったのならむしろこの昴ぶりを収めてくれたのかもしれないが、体温は奪われても奪われても際限なく上昇を続ける。指先から感じる熱がそのまますべてだ。頭の芯まで灼き切れそうだった。
 思考を手放しかけたときにずるりといりぐち付近まで引き抜いてしまい、箍の外れた泣き声が浴室の濡れた空気を震わせた。
 謝罪の言葉なんかどうやったって出ない。咄嗟の艶声に息を詰めて、月はすべての指を抜き取ってしまった。竜崎はか細く鼻にかかった吐息を漏らし、再び浴槽に座り込む。一見泣いているのかと見まごう様態でうなだれる、そのうしろに再び指先が這った。
 湯が頬にかかって、何事かと思った。
 竜崎がひどく顕著に全身を跳ねさせたせいで、水飛沫が立つ。汗や精液や、もはや湯とは呼べないほどに体液の溶け出したそれ。指先の押し当てられた後口は、びゅくびゅくと壊れそうなくらい脈打っている。
 視線をおろせば、腰を浮かせ月にすがりつく竜崎と目が合った。瞼が落ちて半分になった黒瞳が蕩けて滲んでいる。
「……欲しいのか?」
 目が逸らされるのと同時、後ろで指先に吸い付かれた。あからさますぎる反応に困惑して瞬く。首を傾げ、月は呟いた。
「どうぞ。……それとも、僕に動けって言うのか?」
 逡巡が挑発にうち消されるまでにさしたる時間はかからなかった。濡れたシャツのまとわりついた両腕が、浴槽の縁を掴む。時間をかけて腰を上げた竜崎の顔を、月は見上げた。白と金で彩られた浴室が行為の淫猥さをうやむやにしていることに、そのとき気づく。高級すぎる浴室、湯中に沈んだ手錠、あまりに現実感を欠いた光景。絵画のような、と言えば聞こえはいいが、多少想像力のある鑑賞者なら正視に耐えないだろう。抑圧された劣情が吐息になって充満する。
 月のものに手を添えて腰を落とし、あてがったところで竜崎は目を閉じた。
「ん、っ……」
 硬く緊張した息を吐き出しながら先端をじりじりと飲み込んでいく。力のこもったその様を見て、ボディソープでも使っておけば良かったと思っても後の祭りだった。かみつくようにきゅうきゅうと締め付けられて、自然、眉をひそめる。
 月は痙攣する接合部をなぞった。
「何、っ、焦ってるんだ? 力抜けよ」
「あ、ひっ……、無理で、す」
 指三本も咥え込んでおいて無理も何もない。さすがにこのペースでは互いによろしくないと判断し、月は軽く腰を揺すった。
 声にならない悲鳴。自重を支えられずに崩れた身体が沈む。だというのに先端までしか侵入を許さなかったのは、竜崎が直前で両手を突っ張って止めたからだった。手出し無用とでも言いたいのか、負けず嫌いにもほどがある。
 顔と下半身に集中する熱気を持て余しながら、月は呻いた。
「っ、勝手に、しろ」
 半端にぎりぎりまで締め付けられて、辛いのはこっちだって同じだ。もしかしてこれは蹴り技にかわる新手の仕返しなのかなどと薄ぼんやり思う。
 本当に少しずつ、震える腰が動き始めた。
 シャツ越しに透ける骨張った肩をすくめ、涙の跡の残る頬を染めて、時折鼻を鳴らしつつもなんとか下りてくる。乱れた呼吸で必死に酸素を求めるが、入ってくるのは淫靡に濡れた空気だけで、いっこうに満たされる気配はなかった。それにつれて、なのか、反面、なのか、動作は徐々に速くなっていく。それが、なかだけでも満たされようとしているかのように見えて、月は息をのんだ。
 気の遠くなるような時間――実際には大した長さではなかったのだろうが――をかけて奥深くまで咥え込む。そこへ至って竜崎は、胸を上下させて息を大きく吐き出した。細いあえぎ混じりの呼気。
 真正面から目が合う。まなじりは腫れたように真っ赤だった。
「やがみくん……」
 かすれた声で呼ばれて、月は目を細めた。重ねられる唇を受け止める。まるでそこから酸素が得られるとでも言わんばかりに口づけを繰り返す竜崎は、角度を変えて何度もしゃぶりついてきた。さらに奥をと求めてくるのは自身のほうなのに、そのたびせっぱ詰まった鼻声が漏れる。
 そうしているうち、両脚が思い出したようにぴくんと痙攣を始めた。口づけの合間に断続的に続く。それを見て、月は何の気なしに告げた。
「……動いたらどうだ?」
 動きたいなら。言外に含むところのかけらもない言葉だった。だから月にとって、この反応はまったくの予想外だったのだ。
 眼前の双眸が大きく見開かれ、一瞬のうちに瞼で半分以上が覆い隠される。赤らんだ目の縁から水滴があふれてくるのは、単に生理的な反応というわけではないのだろう。脈絡を完全に把握し損ね、さらには竜崎自身が全体的な表情に乏しかったせいで、泣いている、ということに気づくのがワンテンポ遅れた。
 面食らっている間に、はい、というか細い返答がある。そこで初めて、もしかするとこいつは今のを「動け」という意味に取ったのではないかと思い当たった。
 だからって泣くことはないだろう――などと、言えるはずもなく。ゆるゆると腰を持ち上げる竜崎を、月は半ば呆然と見守った。
 ぎっちりと咥えられていた熱の塊が少しずつ現れる。自分のものであるはずなのに、その爛れた光景に軽い目眩を覚えた。中に挿入っている竜崎にはよけい効いたらしく、ちいさく声を上げて動きが止まってしまう。同時になかがきゅうと収斂して、月は眉をひそめた。まずい。
「ぅ、んっ……あ、大きく、なっ――」
 語尾は浅い息づかいに消えた。そしてそれ以上どうにも進退窮まる。続けることも戻ることもできなくなって、熱のこもりきった浴室で窒息するのを待つだけだ。
 月は大きくため息をついて竜崎の腰を抱えなおした。ついでに自分の脚を引き寄せて姿勢を変える。
「ぃ、あぁっ」
「無理するな」
 言えば、瞬間的に鋭くなった黒い視線が飛んできた。何が無理だとでも言いたいのだろうが、これが無理でなければ何なのだ。次ぐ言葉が出てくる前に一度突き上げる。喉の奥で嬌声を押し殺して肩口にしがみついてくる竜崎に、月は密やかに囁いた。
「僕が、耐えられない」
「、ん……」
 顔が見えないので表情は伺えない。が、少なくとも今ので自尊心は保たれたのだろう。蒸気中にこぼれ出す艶声を聞きながら、月は心中でぼやいた。負けず嫌いなのはどっちだ。
 小刻みに揺さぶりつつ、月は口を開いた。先の言葉はけして竜崎をなだめるためだけのものではなかったのだということを、そのときになって知る。浴室だというのに口腔が異常に渇いていた。
「確かに、母さんは負けず嫌いだが」
 聞いているのかいないのか、竜崎はしゃくり上げるような声を漏らして月の頭を抱え込んだ。冷えた髪に指先が潜る。
「人間の人格を形成するのには、やっぱりDNAだけじゃなくて、後天的要因、環境も大きいと思う。……僕は自分がこんなに負けず嫌いだなんて、最近まで知らなかった」
 こんなに。監禁などという非常識な行為を受諾するほどまでに。手錠でつながれてまで、容疑を晴らそうとするほどに。競う相手がいなかったら負けず嫌いになんてならない。
 後天的要因の張本人はといえば、音程の壊れた声で憎たらしい台詞を吐いた。
「口数が、っ、増えますね」
 頭に来たとは認めない。わざとらしく余裕ぶって、月は円を描くようになかをかき混ぜた。跳ね上がる腰を押さえつけて内側をこすり立てる。
 ひとしきり喘いでいた竜崎の声色が、ある一点を突き上げた瞬間に明らかに変わった。
「ふ、ぁあぁっ――……」
 限界まで勃ち上がっていたものがいっそ痛々しいまでに震える。思わず手を伸ばすと、湯中だというのにとろとろと手に絡みついてくる感触があった。先端を指先で弄びながら後ろも責め立てる。
 ぎりぎりまで引き抜いてから奥深くまで蹂躙して、を繰り返せば、内道にまで湯が入ってくるのは避けられない。なかの熱さに比べたらそれはもう水のようなものだったのだろうが、互いの沸騰するような体温でそんなことはもはや感じられなかった。
 顕著に反応が返ってくる箇所を繰り返し突く。熱に浮かされたように続く鳴き声と、きつく締め付けてくる内壁に、これ以上もたないだろうと悟った。抜こうとして腰に手を添える。
「ゃがみ、く……」
 細く呼ばれると同時、ぱたぱたとかぶりが振られた。髪の先から滴がしたたり落ちる。月が動きを止めると、さらに消え入りそうな声が後を継いだ。
「なか、に……ッ――」
 心臓が止まるかと思った。ぞくりと背筋を這い上がる快感が指先まで震わせる。吐精しないで済んだのは奇跡としか言いようがなかった。
 いいのか、などという野暮ったい問いかけはしない。代わって月は首筋に口づけながら訊ねた。
「欲しいのか……?」
 二度目の台詞。竜崎は今度は、はい、とうなずき、そのまま面を伏せた。
 そこで何もかもが切れた。乱暴なまでに突き上げて、何度も強く揺さぶる。深く穿たれた竜崎の濡声がぼやけるように反響した。
「あ、――」
「っぅ――……」
 幾度目かもわからない挿入で絶頂を迎える。竜崎の吐き出した白濁が湯中に広がり、漂った。身体を離せばさらに湯が濁る。月は仰け反って浴槽の壁に頭をもたれかけ、目を閉じた。甘ったるい倦怠感。
 しばらくはふたりして口も利けずに肩を上下させる。が、呼吸が整ってくると、自分が今どういう状態にあるのかに考えが至り、月は眉間にしわを寄せた。いたたまれなくなって浴槽の栓を抜いてしまう。体の下で水流が発生した。
 ついでにシャワーを浴槽の中に引っ張り込んで水を出しっぱなしにする。そうでもしないとどろどろに溶けそうだった。どんなに洗い流したところで、これから先風呂に入るたび妙な気分になるだろうことは、避けられそうになかったが。
 前方を見やると、竜崎がどことなく非難めいた目つきをしていた。
「? 何だよ」
「余韻とか情緒とかはないんですね」
 その単語と竜崎があまりに不釣り合いで、月は瞬いた。驚きが笑いに変わるのにいくらもかからない。声を出さず肩を震わせる月に、竜崎は不機嫌そうなため息をついた。
 笑っていると自分でも考えもしなかった言葉が口をついて出てくる。はー、と一度自身を落ち着かせてから、月は呟いた。
「純血ってものは」
 返ってくるのが肯定でも否定でも、この話はこれでやめよう。そう決めて続ける。
「弱いよ、竜崎」
 竜崎は口を開いてから息を吸い込み、喉を震わせて声を出すのに、長々と時間をかけた。それにしては短すぎるような返事だった。
「知っています」
 と、一旦区切って、
「でも、戯れ言ですから」
 言い聞かせるようにはっきりとした声音だった。
 視線が逸らされてしまった目を見つめる。月は半ば独り言のように応じた。
「……ああ。そうだな」
 全部全部戯れ言だ。湯の中に溶けて流れ去ってしまう程度の。だから語ったことに真情は含まれていない。その場限りの些細な冗談だったのだ。それ以上でもそれ以下でもなく。
 月は湯の抜けきった浴槽の栓を閉め、新しい湯を注ぐために蛇口をひねった。今度は十分に温度の高い温水だ。竜崎は文句をつけたが、浴槽を出ようとはしなかった。
 湯気が噴きだし、浴室が白く染まった。






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送